2008年8月1日金曜日

孫作地蔵尊供養祭

 沢内年代記によると今から269年前の元文4年(1739年)の早春のことです。現在、峠山パークランドオアシス館の東側で竹荒沢に樹齢数百年も経つというけやきの巨木があったそうです。
 この木は「ちょうれん玉もく」といい、根元から枝だまで素晴らしい玉もくがあり、お上からも「絶対切ってならぬ」というお達しのありました。しかし、貧窮した生活に困り果てた人々が方々から120名も集まり盗伐したといわれます。この盗伐隊の代表、孫作は34歳で身長は180㎝、背中幅は90㎝という大男でした。
 この巨木に斧を入れたところ、四方に飛び散ったくずは翌日には切る前と同じようにすっかりとくっつき、木の切り口からは血のような真っ赤な汁が流れ出し、「神のたたりが恐ろしい」と言い出す人も出てきました。せっかく切っても木くずは元にくっつくので、切るとすばやく火に燃やし一週間かかり切り倒しました。
 やがて、盗伐のことが人づたえに新町の代官所に知れてしまい、直ちにお召しとりになりました。孫作はかねてから最悪の事態を予想し、皆に対して「万一盗伐がお上に知れても、私が責任を取るから誰も知らぬ、存ぜぬでとうすこと」と決めていたので孫作だけが捕らえられました。代官所でも「私一人の仕業である」と頑張り通したので孫作だけが打ち首となりました。
 この他に秋田方面から人夫として雇われた者が越中畑御番所に通行手形を所持しないことが分かりその責任を問われた御番所頭の猿橋勝左衛門が切腹、また御同心も監視不行届きとして、孫作と共に3人御成敗仰付けられ10月27日に獄門かれられ、7日7夜晒されたといいます。
 また同山の山守は春から秋まで手錠、同肝入湯本の伊三兵衛も手錠、湯田の喜左衛門は津軽の田名部に流罪になりました。そこで地区の人たちは孫作がひとりで皆の罪を背負って亡くなった孫作の首を篤く葬り、地蔵様をたてて後世祀ったといいます。
 湯田ダム建設と共に水没により、地区民とともに隣の和賀町に移転しましたが、昭和56年2月に20年ぶりに帰り、小繋近の峠山に祀られています。昭和56年9月3日に町の有形文化財に指定されました。

 その孫作地蔵供養祭が午後2時から峠山の一里塚近くの「孫作地蔵尊堂」で行われます。